気まずさってなに?

先日、恥ずかしいってなに?という話を書いた。

 

garage.hatenablog.com

 この考察はまだまだ納得行くところまで行ってなくて、

人と人との関係性の間に、恥ずかしいは生まれるなという

ところまでしか考察できていない。

この問題をもっと考えていこうとすると、

恥ずかしさと関連のある他の感情についても

考察しておいたほうがよい。

その感情は、「気まずさ」である。

 

何か失敗をし、みんなに笑われたとしたら、

きっと恥ずかしさと同時に気まずさを感じる。

ただ、気まずさは恥ずかしさよりも

もう少し上の概念の気持ちだと思う。

気まずいけど、恥ずかしくないという状況も存在するからだ。

例えば、初めてあった人と話が弾まず、沈黙が続くとか。

自分が悪口を言っていたら、そばに本人がいた時とか。

この時に根底に流れている感情は、それぞれ別物である。

ただ、共通しているのは、「居心地が悪いと感じる」ということだ。

 

居心地が悪いとは、どういうことだろうか。

簡単にいえば、その場にいると安心できず、何かマイナスの感情が

湧き出てくる状態だ。

では、マイナスの感情であれば全て気まずさにつながるのだろうか。

それはおそらく違うだろう。

お葬式に参列するとマイナスの感情である悲しみが湧き出てくるが、

気まずさを感じることは無いはずだ。

ということは、特定の感情が気まずさと結びついていることになる。

 

悲しみは気まずさを生まず、恥ずかしさは気まずさを生む。

では、悲しみと恥ずかしさの間には、どんな違いがあるのか。

それは、自己完結できるかどうかにあるのではないだろうか。

悲しむという行為は、自分一人でもできる。

頑張った努力が報われなかったり、

自分の能力の限界を感じた場合、

そこに登場するのは自分一人だが、悲しむことが出来る。

恥ずかしさは、誰かがいないと成り立たないのだ。

街を裸で歩くと恥ずかしいが、自分の部屋を裸で歩いても恥ずかしくない。

ということは、気まずさも人との関わりの中でできあがる感情である。

 

次に、同じシチュエーションでも気まずさを感じる時と感じない時のことを

考えてみる。

例えば、怒るという場合。

自分の感情に任せて相手を怒鳴りつけてしまうと、

その後に大きな気まずさを感じる。

しかし、相手のことを思って「叱った」場合、

そこまで大きな気まずさは感じないのではないか。

この2つにどういう差があるのか?

私は、感情に任せて怒った場合、

「自分の価値を自分で下げる」

というプロセスがあると考えている。

このプロセスによって、気まずさが生じるのではないか?

という仮説である。

感情に任せて怒った場合、多くの人は後悔をする。

どうしてあんなことしてしまったんだろう。

相手の人を傷つけてしまったな。

周りの人に、嫌なやつだと思われただろうな。

このような感情は、自分を否定することになり、

自分の価値を自分で下げている。

もし怒った人がこんなことを考えていたらどうだろう。

怒ってやって清々した。

周りのみんなも、「よくゆってくれた!」と評価してくれたし、

相手も少し反省した様子だったな。

満足、満足。

この場合、後悔することもなければ、気まずさを感じることも

無いだろう。

「叱る」場合も同様である。

相手のことを思っているのだから、後悔したり、

自分で自分の価値を下げたりする必要がないのだ。

 

ということは、自分で自分の価値を下げなければ、

気まずさを感じずに要られるのではないだろうか。

これは少し、試してみる必要があるだろう。